のちに日之出運輸を創業する佐藤憲雄は、1940年に広島県福山市で生まれました。1959年、広島県立神辺工業高校を卒業し、福山林業株式会社に入社。1962年3月まで勤め、4月に有限会社福山運送を設立して、起業家としての第一歩を踏み出します。
1963年には福山運送を廃業し、和光工業株式会社を設立。建築資材を製造し、業績も順調でしたが、1967年12月、工場内で機械に巻き込まれ、生死をさまよう大事故に遭い、奇跡的に生還したものの、右足大腿部から下を切断し、右足を失ってしまいます。このことは、憲雄の経営に対する姿勢にも影響を与え、現社長である長男、佐藤慎司の人生においても、大きなターニングポイントになりました。
義足の生活になっても、「一度死んだと思えば何でもできる」と憲雄は不屈の精神で再起し、運送事業の可能性を見いだして創業に向けて邁進します。
HINODE STORY
HINODE&SONS 50年の歩み
1962 - 1970
不屈の精神で再起し、
創業へ邁進
1971 - 1982
日の出の勢いで
躍進を果たす
佐藤憲雄31歳。日本は高度経済成長後期を迎え、好景気が続く中、1971年2月に和光工業株式会社を廃業し、3月に有限会社日之出運輸を設立。社是に「誠心誠意」を掲げ、社名に込めた強い信念を持って、運送業界への船出を果たします。
1971
資本金250万円、車両4台、従業員4名
岡山県倉敷市玉島で(有)日之出運輸を設立
HINODE&SONSグループの礎となる有限会社日之出運輸は、倉敷市玉島爪崎、現在のJR新倉敷駅前で産声を上げました。貨物運送取扱事業(現・貨物自動車利用運送)とともに一般小型自動車運送事業としてスタートしました。
激動の時代、何か新たなビジネスはないかと思いを巡らせていた憲雄がふと目にしたのは、水島コンビナートに行き交うトラックの帰り便に空車が多いことでした。「この空車に帰り荷を付ける仕事をしよう」。このひらめきが、日之出運輸誕生の原点です。
SIDE STORY
創業当時、広島県福山市に住んでいた佐藤憲雄は、左足用アクセルペダルを付けたオートマチック車で玉島まで通っていました。小学生だった長男の慎司は、助手席に乗ることも多く、家では義足を脱いで松葉杖で生活をしていた父の姿が脳裏に焼き付いています。
憲雄は、小学生だった長男の慎司を〝杖代わりに〟連れて、出張に行くことが何度もありました。階段を上ったり下りたり、靴を脱いだり履いたり、足の不自由な憲雄の世話をするのが慎司の役目です。当時は新幹線もなく、寝台車に乗って、倉敷から東京まで2人で出張し、会議中は部屋のそとで遊んで待っていました。窓から上を見上げると、東京モノレールが走っていた光景を覚えています。逆境に遭遇しながらも事業を興した父の背中を間近で見ながら幼少期を過ごしたことは、慎司の人生観に大きな影響を与えました。
1974
一般貨物自動車運送事業の許可を取得
トラック運送業の営業を本格スタート
それまで、大型トラックでの運送は運送事業者に委託し、小型トラックでの貨物運送のみを自社で請け負っていましたが、一般貨物自動車運送事業の免許を受け、トラック運送の営業を開始しました。
1976
増資し、有限会社から株式会社に改称
日の出の勢いで年商4億円企業に成長
オイルショックの後遺症が残る時代にありながらも、この年の9月、資本金を1650万円に増資し、商号を有限会社から改称して株式会社日之出運輸が誕生しました。車両は約20台、従業員も30名以上に増え、売上高は約4億円と、大躍進を遂げました。
翌1977年10月には、倉敷市片島町の国道2号沿いに営業本部を新設し、輸送主管センターを設置しました。現在、ALBA AUTO、ロウズ観光、ライズインのグループ3社が入居するHINODE&SONS片島町複合ビルのある場所です。
1980
倉敷から徐々にエリアを拡大
日の出運輸が全国に知られる存在へ
この年、日本は初めて自動車生産台数世界一となり、日本経済は順風満帆な時代にありました。当社も、福山、東京、九州、大阪に営業所を開設するなど、躍進を続け、従業員数は55名、HINOのトラックを中心に、保有車両も約30台にまで増えました。
時を同じくして、日野自動車が発行する、奇遇にも当社の社名と同じ「日ので」という広報誌に、4ページにわたって「日の出運輸の走行圏は広く、南は鹿児島、北は仙台までを網羅。若さとファイトと合理性で躍進する企業である」と紹介され、これを機に、物流業界では全国に知られる存在となりました。
1981
ハトのマークのトラックで
引っ越しサービスの新事業に参入
10月、輸送主管センター内に、ハトのマークのひっこし専門(現・ハトのマークの引越センター)新倉敷センターを設立し、引っ越しサービスをスタートさせました。研修を受けた専任のドライバーを置き、貨物輸送の実績を生かした新しい事業展開でした。
1982
創立10周年を迎え、北海道旅行
事業拠点を拡充し、年商18億円
好調な業績に支えられて迎えた創立10周年。北海道への記念旅行で撮影された写真がたくさん残っています。
備前営業所、堺事業所を開設し、事業の拡大を進め、創業時250万円だった資本金は3210万円に増やし、車両は約40台、従業員は約70名、売上高は18億円を超えていました。
1983 - 1990
本社ビルを新築移転し、
さらなる成長を誓う
1983年に東京ディズニーランドが開業し、パソコンが一般に普及し始めるなど、社会に価値観の多様化が生まれる中、日の出運輸は本社ビルを倉敷市片島町に新築移転します。日の出グループの規模は拡大し、新しいシンボルマークも発表して、次なる飛躍のステージに挑みます。
1983
倉敷市片島町に本社ビルが完成
好調な業績を受け、次々と新会社を設立
4月には、運送会社や一般企業向けにコンピュータソフトウェアを販売する株式会社日の出システムを設立し、高度情報化社会を見据えて、富士通、富士ゼロックス、東芝の代理店業務を始めました。9月には、現在、ALBA AUTO、ロウズ観光、ライズインが入居するHINODE&SONS片島町複合ビルが建つ倉敷市片島町に本社ビルを新築し、本社を移転しました。10月には、日の出整備認証工場を開設し、これが、のちの日の出自動車株式会社(現・ALBA AUTO株式会社)となります。
1984
自社車両の燃料供給インフラを構築
銀行のオンラインデータ伝送システムを導入
8月、油脂販売業、損害保険の代理業を担う日の出興産株式会社を設立し、日の出運輸の車両を中心に、貨物輸送トラックの燃料供給から車両整備までをすべて自社で行える体制が整いました。9月には、中国銀行、広島銀行、富士銀行(現・みずほ銀行)との間に、西日本初のファームバンキング(FB)を導入し、他社に先駆けてオンラインデータ伝送システムの利用を開始しました。
1987
創立15周年、日本はバブル経済へ
車両100台、従業員160名、年商55億円
日本が本格的なバブル景気に突入したこのころの当社は、まさに日の出の勢いで成長を続けていました。創立15周年を迎えた1987年には、車両約100台、従業員約160名、営業所・事業所の出店数14店舗、年商55億円の企業に成長していました。
SIDE STORY
当時、現社長の佐藤慎司は大学生でしたが、大学で講義が終わると毎日のように、配車の応援のため、大阪の事務所に通っていました。そして、3年生から卒業までの2年間は大阪営業所(現・日の出運輸阪神大阪支店)の2階に住み込み、空いている時間をすべて仕事に費やします。父から、いずれ事業を継ぐ息子への帝王学だったのでしょう。
1988
クリスマスに突然の立候補表明
「佐藤のりお」倉敷市議会議員選挙へ
この年のクリスマス、先代社長の佐藤憲雄は家族にも何の相談もなく、突然に、倉敷市議会議員選挙への立候補を表明し、周囲を驚かせました。引退する議員の後継を打診され、自らの経験をもとに障害者福祉に貢献したいとの想いから、社業との二足のわらじを決めたのです。しかし、投票日までは、わずか1カ月。「佐藤のりお」と大きく書かれたポスターや選挙カーを大急ぎで用意し、家族と社員が一丸となって応援しました。その甲斐あって、昭和から平成に時代が変わった翌1989年1月、倉敷市議会議員・佐藤憲雄が誕生しました。
SIDE STORY
1月8日、時代が昭和から平成に改元され、4月1日には消費税3%が導入されるなど、1989年の日本は大きな変化を迎えていました。昭和天皇の崩御により、事務所開きもできない中、佐藤のりお陣営は、昼夜問わずの過激スケジュールで選挙戦を繰り広げました。現社長の慎司は24歳。本来であれば、事務局長や選挙対策本部長が担うような大役を一手に引き受け、後援者への親族代表あいさつから、選挙カーの運転まで、粉骨砕身の気持ちで陣営を支え、憲雄は見事に初当選を果たします。そして、4期16年にわたり、地元倉敷市のために汗を流しました。
左から先代社長, 片山虎之助元総務大臣, 中塚正人元岡山県議会議員
先代社長と橋本龍太郎元首相
1990
創立20周年の年商は75億円超
環を表現した新しいシンボルマークを発表
バブル経済が崩壊し、日本経済は危機的状況に置かれましたが、すでに強固な物流情報ネットワークを築き、大口顧客だけに頼らない堅実な事業展開で、当社の貨物自動車利用運送事業は業績好調を維持。資本金を1億3000万円に増資し、車両178台、従業員約250名、売上高75億4300万円を計上していました。沖縄で開催した創立20周年の記念式典では、本社の増築完成予想図が発表されました。
また、この年、コーポレートアイデンティティ(CI)を導入し、ロゴデザイナーの飯守恪太郎氏による新しいシンボルマークが公開されました。
広い視野で、物流の環を広げる信頼のサンライズマーク、視野360度で、創造的な物流の環を回転させるスピードマーク、誠心誠意を核として物流のコミュニケーションの環を拡大する日の出マーク、無限に飛躍する軌道Unlimited Flying Orbitを表すUFOマークと、さまざまな日の出運輸のイメージを表現しています。
SIDE STORY
創業20周年の節目の年に制定されたSUPER MODERNなシンボルマーク。このサンライズマークをデザインしたのは、著名なロゴデザイナーの飯守恪太郎氏です。1935年生まれの飯守氏は、電通、レマンを経て、CI構築を専門とする〝シンボル・バンク〟イーモリアーツリミテッドを創設し、日野自動車のエンブレムや清水建設、NTT、ホテル・センチュリーなどのロゴマークを手がけました。
日の出運輸のシンボルマークは「安全と高速」という2つのワードから発想し、日の出グループの従業員の安全な行きと帰りを願う気持ちを込めてデザインしたと語っています。トラックのボディに描かれたサンライズマークは、真横はもちろん、かなり斜めの方向から見ても、はっきりと認知されるように工夫が凝らされています。
また、コーポレートカラーのスカイライン・ブルー(地平線の青)は、日の出前の濃い青空を表しています。
1991 - 2000
大震災を乗り越え、
物流の明日を支える
世界では湾岸戦争が勃発し、ソビエト連邦が崩壊した1991年、日の出グループはバス事業、観光事業に乗り出し、翌1992年には、増築した新本社ビルが完成。バブル崩壊後の景気低迷やデフレ経済による価格破壊の影響も受けず、グループの強みを生かして事業を多角化していきます。阪神淡路大震災では道路が寸断され、輸送ルートが閉ざされる困難を従業員の総力で乗り越えました。
1991
一輪のバラをシンボルマークに
バス事業・観光事業に進出
12月、先代社長・佐藤憲雄の出身地である福山市の花、バラをシンボルマークに、バス事業、観光事業を行うロウズ観光株式会社を設立しました。デリケートなバラの花を扱うように、温かく心のこもったサービスでお客様をおもてなしし、快適な旅を楽しんでいただきたいという願いが込められています。
前年の1990年10月に福山市で設立された引っ越し専門のロウズパック株式会社とともに、一輪の赤いバラが描かれたロウズバス、ロウズトラックが街を走り、日の出グループの新時代の到来を告げました。
1992
サンライズマークを冠し、
増築した新本社ビルが完成
1992年6月、倉敷市片島町の本社ビル東側に4階建てのビルとロウズバス、ロウズトラックを納める車庫を増築し、日の出運輸のサンライズマークが空に映える新本社ビルが完成しました。
バブル崩壊後、デフレ経済による価格破壊によって倒産を余儀なくされる同業者も多く、物流業界全体が厳しい状況にさらされましたが、当社は「苦しいときにこそ、互いに協力を」と、同業他社との協力体制を強化してきた甲斐あって、大きな影響を受けることはありませんでした。
1995
阪神淡路大震災で道路寸断
輸送ルートを絶たれる
1995年1月17日に突如発生した阪神淡路大震災では、当社の事業運営の最低条件である道路が遮断され、お客様に荷物が指定通り届けられないという苦しい経験をしました。トラックがあっても、走らせる道路がなければ、荷物は運べません。通常の輸送ルートを絶たれても、何とかしてお客様に荷物を届けるため、ドライバーには特に苦労をかけましたが、山陰地区を迂回して輸送するなど、全社を挙げて昼夜を問わず運行を続けました。
1999
物流のあらゆるオーダーに応える
日の出ナビゲーションシステム
このころの日の出運輸の物流ネットワークは、北は金沢、東京から南は九州まで20拠点、自社と協力会社が保有する車両総数が2000台を超える規模に拡大していました。
「物流なら日の出」を強く印象づける施策として打ち出した「日の出ナビゲーションシステム」は、より安く確実に、より速く安全に、お客様のビジネスにコストダウンで貢献する物流改革への挑戦。フリーダイヤルを開設し、電話一本で、各種定期運行はもちろん、火急な輸配送、配車、納品代行から、医療用精密機器などのきめ細やかな輸送を手がけるオーダーメイド輸送の「ハンズ便」まで、顧客のあらゆるオーダーに応える物流のトータルプロデュースを目指しました。顧客のどんな要望にも応えようとするお客様本位の姿勢は、日の出運輸創業時に社是に掲げた「誠心誠意」を受け継ぐものです。
2000
創立30周年を迎え、
年商90億円企業に成長
「IT革命」が新語・流行語大賞を受賞し、ミレニアムと呼ばれた20世紀最後の年、当社は創立30周年を迎えました。資本金2億6000万円、車両177台、従業員数289名、売上高89億4000万円。21世紀に向けた長期的な経営ビジョンのもと、日の出運輸を中心に、ロウズ観光(貸切バス、福祉タクシー、路線バス、海外・国内旅行)、ロウズパック(引っ越し専門)、日の出自動車(車両整備・販売、保険)、日の出興産(燃料販売、損保代理、不動産売買)、日の出システム(ソフトウェア販売、OA機器販売)を関連会社とする日の出グループとして躍進を続け、1971年に資本金250万円、車両4台、従業員4名で創業した小さな有限会社は、年商90億円企業に成長しました。
7月には、ロウズパック、日の出興産、日の出システムの事業を日の出ネットワークスに統合。10月には、日の出運輸のホームページを開設しました。
2001 - 2010
21世紀の始まりとともに、
日の出グループも新時代へ
景気低迷が長引く中、21世紀を迎えた日本。新世紀の始まりとともに、日の出運輸は次々に営業所・事業所、配送センターを開設し、輸送から保管までを担う物流ネットワークを広げていきます。2004年、創業者である佐藤憲雄の急逝により、現社長の佐藤慎司が代表となり、日の出グループは新しい時代へと歩み出します。
2004
約8億円を投じ、
超低PM排出車を19台導入
2003年10月に開催された東京トラックショーで日野自動車が発表し、ディーゼル車の低公害化に向けたプロジェクトとして大きな注目を集めたのが、超低PM(粒子状物質)排出ディーゼル車認定制度で「4つ星」を取得したトラックです。
2004年1月、当社は約8億円を投じ、このPM排出量が最も少ない、85%低減レベルの4つ星車19台を一括購入しました。デフレの影響に加え、運輸業界に対する各種規制が厳しくなり、速度抑制装置の装着義務、首都圏を含む大都市圏の環境規制が強化される直前のこと、多くの同業他社が倒産に追いやられた時代であり、当社も決して余裕のある状況ではありませんでした。しかし、世界的な環境保全意識の高まりを受け、日本でも企業の社会的責任(CSR)が叫ばれる中、トラックを走らせ、公共道路を利用する日の出運輸の社会的責任を考えたとき、超低公害車の大量購入という決断に至りました。
新車授与式にはマスコミ関係者が取材に訪れ、運輸業界にも大きな驚きを与えた出来事でした。
2004
公務中の不慮の事故で
創業者の佐藤憲雄が急逝
倉敷市議会議員として4期目を務めていた先代社長の佐藤憲雄が、7月28日の行政視察中に不慮の事故に遭い、治療の甲斐もなく、翌29日に亡くなりました。63歳でした。
長男であり、取締役副社長だった慎司が社葬を取り仕切り、憲雄の葬儀は8月19日にコンベックス岡山にて、しめやかに執り行われました。そして、39歳の慎司は代表取締役に就任し、日の出グループを率いていくことになります。
SIDE STORY
創業者であり、父である佐藤憲雄が63歳で亡くなったとき、現社長の慎司は39歳になったばかりでした。「一生、社長をして、市会議員もできる限り長く続けたらいい。僕はベストなナンバー2でいるようにしますから」。事故に遭う少し前に、憲雄とそんな会話をし、〝ベストなナンバー2〟になることを決意した矢先の、本当に突然の出来事でした。 7月28日、東京に出張中だった慎司は、電話で父親が事故に遭ってドクターヘリで運ばれたことを知らされ、急遽、飛行機で岡山に戻りました。川崎医大病院の医師に告げられたのは、脳が大きな衝撃を受けていて、元に戻ることは決してない、奇跡は起きないという現実でした。慎司は、病院に集まっていた親戚や従業員を帰らせて病室にひと晩泊まり、まるで自問自答するように、父親と二人きりでいろいろな話をしました。翌朝、憲雄を病室に残したまま会社に戻り、全支店・営業所に連絡をして、心配する従業員たちに「社長のことだから、仕事だけはおろそかにするなと言うだろう。しっかり会社を守ってほしい」と伝えました。ひと晩の別れの時間が持てたことで冷静さを取り戻し、その後のすべてを引き受ける覚悟ができたのだと当時を振り返ります。
2006
米子事業所に三温帯倉庫を新設
食品の保管・輸送業務を本格化
食品物流事業の拡大を図るため、2006年1月、日の出運輸(現・日の出運輸中国)米子事業所に、日の出グループ初となる常温・冷蔵・冷凍の三温度帯管理が可能な倉庫を新設しました。食品の鮮度を保持しながら保管できる三温帯倉庫を持つことが新たな受注につながり、食品の保管・輸送業務の本格化に成功しました。
2010
日の出運輸埼玉支店を新築移転
3階建て物流倉庫が完成
2010年5月、日の出運輸埼玉支店(現・日の出運輸関東本社及び埼玉支店)は、東日本地域における物流基盤の拡充・整備を図るため、旧拠点を集約するかたちで新築・移転しました。3階建ての物流倉庫には、輸送品の円滑な受発注に向けた荷主企業とのオンラインシステムを導入し、首都高速道路や東京外環自動車道へのアクセスが容易な好立地を生かして、全国発送の拠点となっています。
2011 - 2020
運輸会社の枠を超えた
社会提案企業
新生HINODE&SONS
グループへ
二代目社長となった佐藤慎司が率いる日の出グループは、全国に物流サービスを拡大させ、2011年には拠点数が50を数えるまでに成長していました。これまで以上に顧客のニーズに応えるため、従来の中央集権型の企業運営から舵を切り、持株会社体制への移行を実現。HINODE&SONSグループとして、さらなる変革を目指します。
2011
Curvesとの縁と想いをつなぎ、
異業種のフィットネス事業に参入
創業以来、総合物流事業を核に成長してきた日の出グループが、2011年4月、全くの異業種であるフィットネス事業に参入します。先代社長の妻であり、前会長の佐藤一夜は、他社が運営していたフィットネスクラブCurves(カーブス)の倉敷市連島町にある店舗に通っていました。米国Curves Internationalの創業者が幼いころに糖尿病で母親を亡くした経験から「母のような人を助けたい」とフィットネスクラブチェーンを創業した想いに感銘を受けた前会長の提案により、Curvesのフランチャイズ事業をスタート。現在のHINODE&SONSグループが目指す〝運輸会社の枠を超えた社会提案企業〟への大きな一歩となりました。
SIDE STORY
2011年3月11日に発生し、東日本各地に未曽有の被害をもたらした東日本大震災では、日の出運輸宮城支店(現・日の出運輸北日本)のお客様の多くが被災しました。宮城支店、仙台営業所(現・仙台支店)の従業員は幸いにも全員無事でしたが、深刻な物資不足に直面する被災者のため、日の出運輸倉敷本社で支援物資を集め、常務の佐藤雅彦(現・HINODE&SONS専務)が自ら10tトラックを運転して東北に届けました。
2011
ホールディングス化により
HINODE&SONS株式会社誕生
創業以来、岡山県倉敷市に本社を置き、全国の物流拠点を通じて物流サービスを提供してきた日の出運輸でしたが、拠点数は50を超え、顧客ニーズへの細やかな対応が困難になっていました。そこで2011年10月、株式会社日之出運輸はHINODE&SONS株式会社に名称を変更して持株会社へと移行し、新たに、全国に子会社としての株式会社日之出運輸を新設しました。このホールディングス化により、北日本、関東、中部、阪神、山陽、中国、九州の7社の日の出運輸が誕生。グループ全13社の分社体制となりました。
「日の出とその息子たち(SONS)」という意味を持つ新しい社名には、親会社と子会社が、まさに親子のように心を一つにし、永続的繁栄に向けて邁進するという強い意志を表しています。
2012
2本社体制を具現化すべく、
HINODE&SONS営業本社を開設
ホールディングス化により、各地域で産声を上げた日の出運輸7社が地元に愛される企業経営を進める中、HINODE&SONSグループは、かねてより計画していた2本社体制を具現化するため、2012年10月、東京都足立区にHINODE&SONS営業本社を開設しました。
新社屋(鉄骨造り3階建て・延べ床面積520㎡)には営業本社のほか、日の出運輸関東の東京支店(現・フィッタジャパンロジスティカ東京情報センター)と日の出交通が入居し、敷地内にはタクシー59台などが収容できる鉄骨造り2階建ての自走式車庫も整備しました。
2013
創業の原点である物流取扱事業を
高度化・専門化する新会社を設立
2013年10月には、日の出運輸創業の原点ともいえる物流取扱事業をより高度化・専門化すべく、物流情報サービスを担う新会社フィッタジャパンロジスティカ株式会社を設立。全国各地に情報センターの開設を進め、物流情報ネットワークを構築していきます。
2014
より幅広い事業展開に向けて
M&Aによるグループ化を加速
HINODE&SONSグループは、子会社の事業拡大とともに、グループの拡大を推し進めます。2009年に日昭運輸倉庫、2013年に新開運輸倉庫、2014年には海上コンテナトレーラー輸送のスワロー海コン(現・日の出コンテナライン)、弥生運輸、2015年には野村交通、2016年には山陽運輸倉庫と、HINODE&SONSの経営理念に共感する企業とのM&Aによるグループ参画を積極的に進め、これまでは提供できなかったサービスや、各社の強みを生かした新たな提案など、より幅広い事業展開が可能になりました。
2017
HINODE&SONS倉敷本社、
グループ最大の流通施設が完成
さらなる事業拡大を見据え、10年以上にわたる移転候補地の検討を経て、2017年12月、グループの原点である日の出運輸発祥の地、岡山県倉敷市にHINODE&SONS倉敷本社の新社屋と倉敷物流センターが完成しました。2万2683㎡の敷地に5243㎡の延床面積を持つ倉敷物流センターは、さまざまな種類の荷物、3PLサービスにも対応可能なグループ最大級の流通施設となりました。
SIDE STORY
災害が少ないといわれる岡山県を襲った西日本豪雨は、2018年7月7日、当社と目と鼻の先である倉敷市真備町に甚大な被害をもたらし、当社グループの従業員も被災する事態となりました。当社では、現社長の佐藤慎司が所属するボランティア団体と協力し、社長自ら日の出運輸のトラックを運転するなど先頭に立ち、また、週末には近隣のグループ各社の従業員も参加して黙々と汗を流し、約3カ月の間、毎日ボランティア活動を続けました。被災した家屋の片付けが一区切りをついたころには、持ち込んだトラックは泥土で廃車にする傷みようでしたが、現社長のボランティア精神は、身体障がい者であった創業者、佐藤憲雄の教えによるものだといいます。
2020
創立50周年を前に、
新社屋・片島町複合ビルが完成
有限会社日之出運輸の創業から始まったHINODE&SONSグループは、2021年に創立50周年を迎えます。大きな節目を目前に、2020年1月には、HINODE&SONSの旧本社跡地に、ALBA AUTO(旧・日の出自動車)、ロウズ観光、ライズインのグループ3社が入居する新社屋が完成しました。
また、HINODE&SONSグループのホームページをリニューアルし、50周年記念のロゴも制作。全国各地のお客様から幅広くご愛顧いただいていることへの感謝、お客様のために尽くし、働いてくれている従業員へ感謝の気持ちを表現するため、「ありがとう」をロゴのキーワードにしています。
HINODE&SONS
For the Next 50 Years
わが国は多くの問題を抱える社会情勢、不安定な経済動向の中にありますが、HINODE&SONSグループは、これまで培ってきたノウハウと強みを生かした経営戦略を深化させ、グループ全体の総合力を活用した社会提案企業、すなわち当グループの考えるオンリーワン企業に成長していきたいと考えています。そのステップとして、まずはIPO(新規上場)を目指し、企業体質の構築に全力を傾けていきます。
創業者である先代社長、佐藤憲雄から引き継いだ会社を永続的に繁栄できる状態に育て上げ、次にバトンタッチしていくのが私の役目です。先代が社是に掲げた「誠心誠意」を、仕事の領域から利害関係のない間柄にまで意味を広げ、真心を込めてお客様と接するだけでなく、従業員や地域の方々とも誠意を持って接することを心に留めて、事業の発展に努めます。そして、精進を重ね、堅忍不抜の精神で邁進してまいります。
HINODE&SONS 株式会社
代表取締役社長 佐藤慎司
共に成長する仲間を募集しています
新卒、既卒、業界経験の有無に関わらず、
運輸会社の枠を超えて活躍したい方を募集します。